恋慕開花




先へと急ぐ龍神の神子一行の一番後ろで、ヒノエはある一点を凝視しながら歩いていた。
視線の先にあるのは長い紫苑の髪をなびかせて歩く白龍の神子こと春日望美。
最近気が付けば彼女を見ていることが多いとヒノエは気が付いていた。
春に出会ってから数ヶ月が経つ。
初めは興味本位で近づいたヒノエだったが、このところ何故自分が彼女の傍にいるのか分からなくなってきた。
彼女の傍にいると息苦しくなる。
かといって離れればもっと苦しい。
それが何故なのか分からないまま今日までヒノエは微妙な距離を保ってここまで来た。
だがこれ以上彼女に近づいてはならないと、もうずっと前から警告音が自分の中でなっている。
ふと見れば望美の傍には、あのいけ好かない叔父・弁慶の姿がある。
彼は何か親しげに望美と言葉を交わし、望美も楽しげにそれに返している。
何を話しているのかここからでは聞こえないが、ヒノエはそれがとても不愉快に感じていた。
前を行く八葉をずんずんと追い越し、ヒノエは望美と弁慶の間にスッと入り込んだ。

「オレの姫君に気安く話しかけるのはやめてもらおうか」

かなりの凄みを利かせたつもりだったが、弁慶はいつのも様子であっさりと返した。

「『オレの』? いつから望美さんは君のものになったのですか。
はっきり言って君にその権限はありませんよ。ヒノエ」

ヒノエはその言葉に「うっ」と詰まった。
確かに望美にとってヒノエは自分を守る八葉の一人でしかない。
二の句を告げないヒノエを一瞥して、弁慶はにっこりと笑ってヒノエの横を通り過ぎた。

「さぁ、望美さん先を急ぎましょう」

そう言って望美の手を取る。
望美は事の成り行きを心配そうに見つめていたが、
ヒノエがそれ以上何も言わないので促されるままに弁慶に従った。
立ち止まったままのヒノエの横を八葉たちが追い越していく。
一人また最後尾に残されて、ヒノエは今までにない寂寥感を味わった気がしていた。





その日の夜、ヒノエは宿の縁側から一人月を眺めていた。
別にそれは風流に月見をしているわけではなく、ただ物事を考えるためにぼうっと眺める対象が欲しかっただけ。
考えるのは今日のあの出来事。
いつもなら軽くかわせた弁慶の言葉も、あの時は何故か言い返せなかった。
でも、時間をおいて考えてみて、ヒノエはそれが何故なのかがわかった。
それは弁慶のあの言葉が自分の考えていたものと同じだったから。
望美は誰のものでもない。それは自分のものではないということ。
誰も彼女を自分のものだとは言えない。
また、あってはならないのだと思う。
望美は神子としてこの世界にいて、それ以上でもそれ以下でもないのだから。
それがとても悲しかった。

「ここにいたんですか、ヒノエ」

顔を向けるとすぐそこに弁慶がいた。

「ここまで近づいて気付かないなんて、珍しいですね」

確かに、気配には敏感なはずのヒノエだが、弁慶の存在に気付かなかったことに少しだけ驚く。
でも、ヒノエにはそんなことはどうでもいいように感じられた。

「何だよ。オレは今話したい気分じゃないんだ」

そう言ってまた月を眺める。
その隣に弁慶は腰を下ろした。
それに対してヒノエは迷惑そうに眉根を寄せた。
弁慶はそれに気付きながらも、無視して話し始める。

「珍しいと言えば、今日の君もまた珍しかったですね」

ヒノエは何も答えなかった。

「あんな君は初めて見ましたよ。そう、まるで愛しい姫君を守るような目で僕を見ていました」

「何が言いたい」

ヒノエは声を低くして言った。

「まさかとは思いますが、君は本気で望美さんのことを好きなんですか?」

その言葉にヒノエは振り返った。
目の前にはいつものと変わらない弁慶の表情がある。

(試しているのか?)

ヒノエは相手の心の中を探るように弁慶を見つめた。
しかし、彼からは何を考えているのか全く掴めなかった。
ヒノエは諦めて視線を逸らすとまた月を眺めて言った。

「そんなわけないだろ。オレは熊野別当・藤原湛増だぜ。
女を本気にさせるならともかく、オレが本気になるなんてありえない」

その言葉に弁慶は満足したように頷いた。

「そう、君は一水軍を預かる頭領だ。
一つの領地を統べる者として君の婚姻は必ず利益にあるものでなければならない。
それまで君が自由に遊ぶのはかまいません。ですが、どうかこのことは忘れないように。
本気で好きになって辛くなるのは湛増、君なんですから」

弁慶はヒノエを湛増と呼んだ。
それはヒノエではなく熊野別当として聞いて欲しい言葉だったから。

「・・・・」

そんなことはヒノエにもわかっていた。
先代別当である湛快もその前の別当もみんなそうやってきた。
自分だけがそれを許されるとは思っていない。
今こうやって自由にできるのも、世帯を持つそれまでのことだと。

「仮に・・・」

弁慶は静かに言った。
しかし、その言葉には強い意志が灯っていることに、ヒノエは気付いた。

「仮に、君が本気で望美さんを好きだとして、熊野に連れ帰るとするなら、
妾にさせるようなことは絶対に許しません。
中には身分の違いやいろいろな問題で正妻にできない人を側室にさせる人もいますが、
僕が絶対そうはさせませんよ。それほど女性にとって惨めなことはない」

ヒノエはちょっと驚いて弁慶を見た。

「あんた、望美のこと・・・」

「さぁ、明日は早いですよ。ヒノエ」

皆まで言わないうちに弁慶は微笑むと、さっさと部屋へと戻ってしまった。
その後姿をヒノエはじっと眺めた。
頭の中では先ほどの弁慶の言葉がぐるぐると回っていた。

『まさかとは思いますが、君は本気で望美さんのことを好きなんですか?』

心臓がバクバクと音を立てて鼓動しているのがわかる。
ヒノエはそれを否定するようにフッと自嘲した。

「そんなわけないだろ」

呟いた言葉は野闇の中に解けて消えた。





翌日、この日はいつになく戦闘の多い日だった。
封印のためと、望美は常に最前線で戦っていた。
昨日のこともあって、ヒノエはやはり望美と距離を持って行動していた。
何度目の戦いだっただろうか、さすがに連続して戦っていたためか、望美にも疲労の色が見え始めていた。
朔が無理せず休むようにと声を掛けたが、望美は首を振って次々に怨霊を封印していった。
最後の一戦となったとき、注意散漫になっていた望美に怨霊の触手が伸びてきた。

「望美!」

ヒノエが気付いて声を挙げた。
その声に望美もようやく触手に気付いたが、攻撃も逃げることも間に合いそうにない。
怨霊の触手が上がる。
望美は覚悟して目を瞑った。
しかし、痛みは襲ってくることはなかった。
そろそろと目を開けると、目の前には誰かの背中がある。

「ヒノエくん!」

望美をかばったのはヒノエだった。
安堵のためか、望美はへたりとその場に座り込んだ。
ヒノエは振り向いて「大丈夫か?」と微笑んだ。
望美は頷いて答えた。
ヒノエはホッと胸を撫で下ろすと、望美を抱きしめた。

「何をするの!?」

望美は顔を赤らめて抗議したが、ヒノエからは何の反応もない。
望美も何かおかしいと感じ始めていた。

「失礼しますよ」

弁慶が現れてヒノエを仰向けにする。
力なく仰向けになったヒノエの状態を見て、弁慶は思わず眉をしかめた。
望美も声にならないくらい驚く。
ヒノエの胸には怨霊の手により大きな傷ができていた。

「ヒノエくん!ヒノエくん!」

望美は動揺してヒノエに手を伸ばしたが、弁慶はそれを止める。

「落ち着いてください。大丈夫。見た目はこうですが、意外と傷は浅い」

そう言って弁慶は救急の道具で傷を縛って止血した。

「どうかしたのか!」

望美が攻撃され封印できなかったため、怨霊の封印を諦め、
撃退した他の八葉たちが騒ぎを聞きつけ集まってきた。
そしてヒノエの様子を見て愕然とする。

「今日はもう帰るぞ」

そう言った九郎の言葉に誰も異論を唱えるものはいなかった。

「・・・望美」

荒い息をつきながらヒノエが目を開けて、手を差し出した。
その手を望美は両手で包み、強く握り返した。

「怪我はないかい?」

望美は涙を流しながらコクコクと何度も頷いた。
ヒノエは「よかった」と呟いて目を閉じた。
遠くから自分を呼ぶ望美の声が聞こえる。
しかし、ヒノエにはそれに答えてやる力がなかった。
このまま自分は死ぬのかな。とふと思った。
でもそれでもいいか。とも思った。
好きな女のために死ぬ。最高の死に方じゃないか。
そう考えて、ヒノエは初めて望美を好いているのだと気付いた。

(そっか、オレ望美のこと好きだったんだな)

認めてしまえば、それはあっさりと自分の中に納まった。
もっと早く気付いていればよかった。
ゆっくりとヒノエの意識は闇に溶ける。
最後に望美の顔を思い出す。
でも思い出されるのは最後に見た泣き顔だけで、ただそれだけが心残りだった。





気が付くと、目の前には見慣れない天井がある。
意識を体に集中していくと、自分は褥に寝かされていることに気が付いた。
ゆっくりと体を起こそうとすると、胸の辺りに重い痛みがある。
ヒノエは顔をしかめると、起きるのを諦めて寝転がった。
しばらくすると、誰かが部屋に入ってきた。

「気が付きましたか」

弁慶だった。
それでようやく自分がどうしてこのような状態になっているか思い出した。

「生きているのか」

そう呟いた。
小さな独り言だったのに、弁慶はしっかり聞いていたようで「残念ながら」と答えた。

「君が倒れて大変だったんです。望美さんは自分のせいだと嘆いて泣いて、皆で慰めるのに苦労しました。
それに、君の傷だって笑ってられないものですよ」

望美にはとっさに大丈夫だと嘘をついたが、ヒノエの傷は一歩間違えれば死んでもおかしくないものだった。

「すまない」

ヒノエは呟いた。
弁慶はあきれた様に溜息をつく。
ヒノエは弁慶の助けを借りて、体を起こした。

「それで、望美は?」

ヒノエは今一番気になることを尋ねた。

「部屋で泣き疲れて寝ています。すまないと思うのなら、早く元気な姿を見せてあげることですね」

弁慶はそういいながらヒノエに新しい包帯を巻いていく。
源氏の薬師として、彼の叔父として、ヒノエを死なせないために弁慶は自分にできる限りの治療を施していた。

「なぁ、弁慶。オレは望美が好きだよ」

不意にヒノエはそう言った。
弁慶は聞こえているはずなのに何も答えない。
別に答えなど求めていない。
ヒノエはさらに続けた。

「オレは熊野別当だ。あんたの言うように利益ある婚姻ってのが必要なんだろう。
でもオレは思うんだ。自分にとって一番の有益な存在が、熊野にとっても一番の利益ある婚姻にならないかと」

普通なら広い領地やたくさんの富をもつ名家の姫君と婚姻を結ぶのが打倒なのだろう。
だが、望美は領地も金も何も持っていない。その身一つである。
それでも、ヒノエは彼女に傍にいて欲しいと心の底から思った。
彼女が傍にいてくれるなら、領地も富も自分自身でいくらでも広げて見せると。

「あんたが言うことは正しいことなんだろう。
でも、オレは望美を妾なんかにはしないようにするから、だから・・・」

「ダメです」

弁慶は強く言った。
ヒノエは弁慶を睨みつけた。
弁慶はそれに真っ向から対峙する。

「『しないようにする』? 馬鹿言ってるんじゃありませんよ。傷のせいで弱ってるんじゃないですか? 
こういうときは『絶対にしない』と言うものですよ」

ヒノエは弁慶の言葉に目を丸くした。

「じゃあ、許してくれるのか?」

「許すも何も、人の感情はどうこうできるものじゃないですからね。
君が本気で彼女を正妻に迎えると言うなら異論は言いません。
だたし、それまでには多くの困難が待っていますよ」

「わかってる」

ヒノエは力強く頷いた。
まず、両親を説得して、水軍、民にも納得してもらわなければならない。
しかし、弁慶はヒノエの考えとは全く違うことを言った。

「まず、僕ですね。それから他の八葉と白龍。それから何気に朔殿は手強いと思いますよ」

「あんた、何の話をしてるんだ」

「もちろん、君がこれから先戦うべき恋敵の話ですよ。
まさかこの僕が素直に望美さんを渡すとでも思っているんですか?」

微笑んでいるが背後には不可視の黒い渦が巻いている。
考えてみれば熊野の前に、まず身近にいる輩から戦っていかなくてはならないのは必須であった。
ヒノエはフッと笑った。
その拍子に胸の傷が痛み、慌てて笑うのをやめた。

「まぁ、僕もそうですが、一番手強いのは・・・」

弁慶は途中で話を切った。

「何なんだよ」

ヒノエが先を促したが、弁慶は「身をもって知るほうがいいでしょうね」
と言って汚れた包帯や薬を持って部屋を出て行った。

「何なんだ、一体」

ヒノエがブツブツ文句を言っていると、廊下から足音が近づいてきた。
弁慶が忘れ物でも取りに戻ってきたのかと思ったが、顔を出したのは望美だった。

「あの・・・」

声は掛けるものの、遠慮をしているのか望美はなかなか部屋に入ってこなかった。
その様子に微笑んで、ヒノエは優しく声を掛けた。

「入っておいで」

そう言われて、望美はようやく部屋には言ってきた。
その瞳には申し訳ないという気持ちが現れていて、
包帯を巻かれたヒノエを見るとそれはさらに増したように思えた。

「弁慶さんが、ヒノエくんが気が付いたって言ってたから」

望美はヒノエの脇に腰を下ろした。
ヒノエは望美を見つめたが、望美の目と合うことはなかった。

「ごめ・・・なさい」

望美はポロポロと涙をこぼした。

「どうして、謝るんだ」

ヒノエの声は何処までも優しかった。
それが望美にはとても辛かった。

「だって、私のせいでヒノエくん、怪我・・・しちゃった」

「望美のせいじゃないよ」

ヒノエは望美の頭を撫でた。
それでも望美はさらに泣き続けた。

「泣き顔ばっかり見ているな」

ヒノエは呟いた。

「え?」

よく聞き取れなくて、望見は思わず顔を上げた。

「やっと、目があったね」

ヒノエは安心させるように微笑んだ。
その顔には望美を責めるような気持ちは一切なくて、
望美ヒノエが倒れてから抱えていた罪にやっと許しを得た気持ちになった。

「ねぇ、笑ってよ」

そう言われて、望美は曖昧にだが、ようやく笑った。
その表情に、ヒノエの心臓が一つ高鳴った。
思わず、胸を押さえる。
それを傷が痛んだのかと勘違いした望美はヒノエに近寄った。

「大丈夫?傷が痛むの?苦しいの?」

そうして近寄ってきた望美をヒノエは両腕で抱きしめた。

「確かに、苦しいかもね」

近くにいても胸が高鳴って苦しい。
離れたら、不安で胸が張り裂けそうでもっと苦しい。
これが本気で恋したための苦しさなら、なんて甘く心地よい痛みなんだろう。

「ヒノエ・・・くん?」

触れている部分から驚いている望美の心臓の音が聞こえる。
それと同じように、高鳴っている自分の心臓の音も望美に伝わっているんだろう。
そう思うと少しだけ恥ずかしい。
でも、今こうして素直に望美の事を好きだと思えることに幸せを感じていた。

「少しだけ、このままで」

その言葉に望美は少しだけ迷って、それから「少しだけだよ」と言ってそっとヒノエの背に手を回した。
その時、廊下から足音が聞こえてきた。
望美は慌てて体を離した。
そして現れたのは、薬湯を持った弁慶だった。
ヒノエは「いいところだったのに」と内心舌打ちした。

「ヒノエ、薬湯ですよ。おや、望美さん。どうしたんですか、顔を赤くして」

「あ、ヒノエくんがまだ力がないようなので、倒れ掛かっていたのを支えてたんです」

ヒノエはその言葉に我が耳を疑った。
倒れ掛かった?
支えた?
ヒノエとしては抱きしめたつもりだったのだが。

「それはそれは、大変でしたね」

弁慶は笑っているが、おおよそ事態を把握したのだろう。
わずかにだが、声のトーンが下がっている。

「望美さん。僕はコレを作るので忙しかったので、まだ他の人にヒノエが気が付いたと伝えていないんです。
伝えてきてくれますか?」

弁慶にそう言われて、望美は「わかりました」と立ち上がった。
部屋を出るとき、望美はもう一度ヒノエを振り返った。

「ヒノエくん。ホントにごめんね。助けてくれて嬉しかった。ありがとう」

そう言って微笑む望美の中に、感謝以外の何か別のものが含まれていることに、ヒノエは気付かなかった。
望美が去って、弁慶はヒノエに向き直った。

「では、ヒノエ。力を取り戻すために薬湯を飲んでください。もう支えてもらわなくてもいいようにね」

そう言って弁慶はヒノエの前にドンと湯飲みを置いた。
その色は何とも言い難い緑色で、とても正気で飲めるようなものではなかった。
ちびちび飲み込むヒノエを横目に弁慶が話し出す。

「わかったでしょう。一番の敵は誰なのか」

「ああ、望美自身だね」

まさか抱きしめたことが、倒れ掛かったと勘違いされるとは思ってもみなかった。

「なかなか手強い相手になりそうだ」

しかし、ヒノエの瞳には前のような迷いはなかった。

「望むところ」

ヒノエ力強くそう言った。
生まれて初めて本気で好きになった人。
どれだけ時間が掛かってもいい。
必ずオレはお前を手に入れる。
この息苦しさも痛みも、お前を想うためにあるのなら、オレは甘んじてそれを受け入れよう。
それほどお前という存在に溺れていているのだから。
ヒノエは残りの薬湯を思い切って流しいれた。

「弁慶!一体何を混ぜたんだ。いつものより遥かに苦いんだけど」

ゲホゲホと咳き込みながらヒノエは弁慶に怒鳴った。

「何って、さぁ何でしょうね。ふふ、抜け駆けした恋敵にささやかな復讐ですよ」

そう言って弁慶は微笑んだ。
ヒノエの恋はまだまだ前途多難でありそうである。



<了>



最近こういった男の子の心境を書くのが好きです。
それもちょっとシリアスに。
でもどうしてもオチをつけなければ!と思ってしまう自分がいるんです。
ひょっとして話しを台無しにしてる?
なんか、弁慶さんの薬ネタが多い気がするんだけど・・・ま、いっか。