ヒノエ猫夢物語




その日ヒノエは、いつもの様に海には仕事に出かけず、自室で文を書いていた。

「えーと、『例のものが届いたので送ってやる』、と」

それだけ紙に書くと筆を硯に置いた。
女性に送るならば長々と気の利いた言葉を綴るのだが、野郎相手ではその気遣いは欠片も見当たらない。
ましてや相手はヒノエの苦手とする人物である。
なぜ自分がこいつのためにここまでしなきゃならないのかと思うが、
海を越えて貿易をしている熊野水軍はここでは手に入らない珍しいものが
たくさん行き来しているため仕方がない。
これも別当としての仕事のうちだと請け負ったのだ。
紙を丁寧に折りたたみ文箱に入れると、『例のもの』を取り出すためヒノエは懐に手を入れた。
と、その時ガタガタと音が聞こえた。
ふとヒノエの手が止まる。
飼い猫である桃花が近くにいるのかと辺りを見回すが、姿は見えない。
またガタガタと音がした。

「下か?」

どうやら足元から聞こえてくるようだ。
気になったヒノエは『例のもの』をそのままに懐から手を引き抜くと、庭に降り床下を覗き込んだ。
日の光も入らない暗い床下を目を凝らして見つめる。
すると、わずかな光を反射して、黄色い玉が二つ光った。

「何だ?あれ」

もっとよく見ようと身を乗り出したその時、いきなり二つの玉がヒノエに向かって突進してきた。

「!」

驚いたヒノエは後退しようと頭を上げた。
ゴンッ
虚しく鈍い音が響く。

「・・・っっ!」

声にならない悲鳴と共にヒノエは後頭部を抑えた。
その間にも玉は距離をつめてくる。
ヒノエに十分迫った玉は手前で跳んだ。

「うわああぁぁ・・・」

今度こそ絶叫を上げたヒノエの声が、床下を通じて邸中に響いた。



「何?この声」

別室で桃花と遊んでいた望美は、床下からビリビリと反響してくる声に聞き覚えがあった。
燃えるような赤い髪に、同じ色の瞳を持つ人。
少年と青年の丁度真ん中の年である彼は、少年の持つ美しさと青年の持つ逞しさが見事に同居しているような人だ。
そんな彼に連れられて熊野にやってきたのは数ヶ月前。
自分の世界を捨てて嫁いできた望美に彼は宣言通りの幸せを与えてくれている。
しかし、そんなヒノエが悲鳴を木霊させる理由は一体何なのだろう。
その疑問はバタバタとこの部屋に向かってくる足音と共に解決された。

「望美!見てみろ」

スパーンと勢いよく扉を開けたヒノエの表情は喜々にあふれている。
その手に抱かれているものをずいっと望美に差し出す。
差し出されたものを見て、桃花は一目散に物陰へと逃げ込んだ。

「どうしたの、その猫」

どこから見つけてきたのかヒノエの手には茶トラの猫が抱かれていた。

「床下で見つけたんだ。オレに懐いて可愛いんだぜ」

確かにヒノエの腕の中で猫は頭をヒノエの胸に摺り寄せ、ゴロゴロ喉を鳴らしている。
普段桃花から嫌われているヒノエは自分に懐いてくる猫が可愛く見えるのも頷ける。
ヒノエはそっと猫を床に降ろした。
しかし、猫はヒノエの傍を離れず、足元をグルグルと回っている。
ヒノエは猫を踏まないように注意して腰を下ろした。
すると、猫は膝に飛び乗り、再びヒノエの胸に頭を摺り寄せる。

「ホントにヒノエくんに懐いてるね」

「だろ?妬けるかい」

「・・・バカ。私はヒノエくんと違って猫相手にヤキモチなんか妬きません」

その言葉にヒノエはぐっと口をつぐんだ。
そんなヒノエを見て望美はクスリと微笑むと、

「私、何か食べ物持ってきてあげる」

そう言って望美は部屋を出て行った。
その後もヒノエは飽きずに茶トラの猫と遊んでいた。
ついでによくその猫を観察してみる。
少し太り気味で、たぽついたお腹がまた愛らしい。
尻尾は短くて、ウサギの尻尾が付いているみたいだ。
赤い首輪をして、それが茶色い毛皮ととても似合ってる。
そして桃花は全く触らせてくれないが、この猫は大人しい。
猫ってこんな手触りだったな、とヒノエは思い出す。
この際である、たっぷり触らせてもらおうと、ヒノエは猫の首の下や、耳の裏などをカリカリとかいてやった。
すると猫は気持ちよさそうに目を細めた。
その姿を見てヒノエは嬉しくなった。
気づくと先ほど物陰に隠れた桃花がこちらをじっと見ている。
ヒノエと茶トラから目を離さず、瞬きもしない。

「どうだ、お前よりずっと可愛いぜ」

ヒノエはこれ見よがしに桃花に仲の良さを見せ付けた。
桃花は何も反応せず、相変わらずじっと見つめている。
もうしばらく遊んでいたが、さすがに視線が痛くなってきた。

(何でアイツはあんなにじっと見てるんだ?)

ヒノエは遊びながらも桃花が気になってチラチラとそちら様子を伺っていた。
桃花はずっと同じ体制で見つめている。

(まさか、オレがこいつと仲良くしてるから妬いてるのか?)

本当に妬いて欲しいのは望美なのだか、桃花から妬かれるのもそう悪くない気がする。

(もしそうならちょっとは嬉しいかな。たぶん違うんだろうけどね。
それにしても、望美遅いな)

そんなことを考えていると頃合よく望美が部屋に入ってきた。
餌を取りに行ったはずなのに、その手には何も持っていない。

「餌取りに行ったんじゃないのか?」

「そうなんだけど。あ、あのね、ヒノエくん。話があるんだけど」

望美は言いにくそうに言葉を濁した。

(どうしよう。あんなに仲良しなのにこんなこと言えないよ)

なかなか本題に入らない望美にヒノエは促した。

「なんだい?遠慮せずに言ってごらんよ」

その言葉に望美は意を決して言った。

「それが、その猫ちゃんの飼い主が見つかったらしいの」

「何だって!」

予想外の事にヒノエは思わず声を上げた。

「餌を貰いに行ったら、丁度買い物から帰った女房さんがいて、町で猫を探してる人に会ったらしいの。
なんでも尻尾の短い茶トラで、赤い首輪をしてるんだって」

ヒノエは自分の膝にいる猫をじっと見た。
確かにこの猫の外見とそっくり同じである。
ヒノエはふいの出来事に衝撃を受けた。
そして最後にとどめの一発が入る。

「でね、その飼い主さんって人が今邸にきてるんだけど」

あまりの事の速さにヒノエは絶句した。
返したくない、と正直に思った。
こんな風に自分に甘えてもらえるのは久しぶりだから。
望美も自分に甘えてくれるが、最近は桃花のせいでどうもそういった触れ合いが少なくなってきている気がする。
だから、自分の全てをヒノエに預けてくれる猫がとても可愛かった。

「どうする?」

何も言わないヒノエに、心配そうに望美が尋ねた。
ヒノエは猫を見て、桃花を見た。
そして、ゆっくりと顔を上げて望美に告げた。

「会うよ。そしてこいつをその人に返す」

はっきりとヒノエは言った。
望美は「わかった」と一言だけ言うと、また部屋を出て行った。
ヒノエは膝の上の猫の頭を優しく撫でた。
猫はヒノエの足に顎を預け、くつろいでいる。

(こんな可愛いんだもんな。心配して探すのは当たり前だ)

ヒノエは以前桃花が逃げた時必死に探す望美を思い出した。
もし再び桃花がいなくなったら、また望美が悲しむ。
たとえ嫌われていようとも、いろいろな意味で桃花は自分たちにとってなくてはならない存在だ。
そしてそれはこの猫の飼い主も同じこと。
望美とヒノエが桃花を大事にしているように、この猫の飼い主もきっと大事にしているはずだ。
自分に懐いているという理由で、勝手に自分のものにしてはいけない。
この猫は帰る家族があるのだから。

「お別れ、だな」

そう呟くとヒノエは猫を抱え、飼い主に返すべく部屋を出て行った。



「本当にありがとうございました」

門の前で、何度目かの例を言うと飼い主は猫を抱きしめ藤原邸を後にした。
その姿をヒノエは名残惜しそうにいつまでも見送っていた。

「ヒノエくん、お酒飲む?」

縁側でぼんやりと外を眺めていたヒノエに望美は後から声をかけた。
辺りは暗闇に染まり、空には少し欠けた月が昇り、数多の星たちが瞬いている。

「そうだな。貰うとするよ。今夜は少し酔いたい気分だ」

望美は盆を置き、ヒノエの隣に腰掛けた。
ヒノエにお猪口を渡し、酒瓶からトクトクとついでやる。
ヒノエはそれを一気にあおった。

「あの猫可愛かったね」

「そうだな」

ヒノエは月を仰いだ。
満月ではないが少し太り気味の月にあの猫の姿が浮かぶ。
共に過ごしたわずかな時間。
楽しかった時間はまるで夢のようにあっという間に過ぎた。

「おウチ結構ご近所みたいだよ。今度一緒に遊びに行こうね」

その言葉にヒノエはパッと顔を上げ望美を見た。
ヒノエの反応に望美は苦笑した。

(もう・・・ホント正直なんだから)

望美はコテンとヒノエの方に頭を預けた。
珍しい甘えっぷりにヒノエは少し驚いたが、上手くそれを隠した。

「どうしたんだい?オレの可愛い姫君。今日はやけに甘えん坊だね」

「別にー」

望美はしらばっくれた。

(本当はあの猫に少しだけヤキモチ妬いてたなんて、絶対言わないんだから)

それでもヒノエが少しいつもの自分を取り戻したようなので望美は安堵した。
しかし、望美の嘘はヒノエには通じなかった。

「本当に?実は妬いてたんじゃないの?」

「そんな事ないよ!」

しまった!と望美は思った。
やけに強く反発したことで、逆に怪しい。
これでは「はいそうです」と言っているようなものだ。
案の定、ヒノエは笑っている。

「望美は嘘が下手だね。ま、そこが可愛いんだけどさ」

(しょうがない。今夜はたっぷりと甘やかしてやろうかな)

しょうがないと思いつつも、ヒノエの顔に笑みが浮かぶ。
頬に手をやり軽く撫でる。
それだけで望美の頬は赤く染まる。
いつまでも初々しい反応にヒノエは嬉しさを隠し切れない。
もっと反応をみたいと、つい悪い癖の悪戯心が出てきてしまう。
このままでは雰囲気に押し倒されそうな気がした敏感な望美は、防御手段に打って出た。

「ヒノエくん、全然飲んでないじゃない。ほら、酔いたい気分なんでしょ」

そう言ってヒノエのお猪口に酒瓶を傾けた。
なみなみと注がれたお猪口を見て、ヒノエの悪戯心にピンと案が浮かんだ。
そして望美の作戦は失敗に終わる。

「そうだね。望美も一緒に酔ってくれるなら」

望美が言葉の意味を理解する前に、ヒノエはクッと酒を口に流し込むと、そのまま望美に口付けた。
熱い液体がヒノエの口を通して、望美の喉を通っていく。
普段酒に慣れていない望美は瞬時に顔に赤みが入る。
同時に体も熱くなり、動悸も激しくなる。
全ても流し込むと、望美の唇からわずかに零れ落ちた酒をヒノエがペロリと舌で舐め取った。
そして自分の口も手の甲で拭う。

「どう?酒の味は」

「そんなの、わかんないよぅ」

酒のせいなのか、ヒノエのせいなのかわからない熱い頬に望美は手を当てて答えた。
目の前がくらくらする。
それすらも何が原因なのか、わからない。
ヒノエの行動はいつも妖艶で、自分を熱くさせるから。

「ふふ。お前はホントに酒に弱いね」

ヒノエは望美を抱き上げると、そのまま寝室に向かった。
部屋の前に控えていた女房に扉を開けさせると、その中に入る。
女房をさがらせると、既に敷いてある褥にそっと望美を横たえた。
これから二人がどうなるのか分かっている望美はきゅっとヒノエの頭にしがみついた。

「い゛っ!」

褥まで後わずかというところで、ヒノエは望美を取り落とした。

「どうしたの!?後ろすごい大きなたんこぶあるんだけど」

すっかり忘れていたが、あの猫を探す時に後頭部をぶつけていたのだ。
猫に気を取られて頭から抜けていたが、望美に触れられて痛みが再び襲ってきた。

「いや、これは・・・その。何でもないんだ」

そういうヒノエの目にはうっすらと涙が溜まっている。
それでも情事を続けようとするヒノエに望美はそれを許さず、
まずは治療が大事だと人を呼ぶと濡れた布巾を持ってこさせた。

(ああ、情けねぇ)

望美に後頭部に布巾を押し当てられたまま座っているヒノエは内心溜息をついた。
折角の雰囲気がぶち壊しだ。

(オレってホント、猫に運ないよな)

桃花といい、昼間の猫といいつくづくそう思う。
こうやっていつまでも望美との仲を猫に邪魔されたらどうしよう。
ヒノエは本気で思い悩んだ。



朝、ヒノエと望美は桃花の「にゃ〜ぉ、にゃ〜ぉ」という喜々にあふれた声で目を冷ました。
褥の周りには昨日の情事の際脱ぎ散らかした衣類が散乱している。
その中でヒノエの着物に背中を擦り合わせ、桃花が鳴いているのだ。

「どうしたんだろ」

望美は掛布に包まったまま桃下の様子を見つめた。
ヒノエも訳がわからずその様子を見守る。

(もしかして、ホントに昨日の猫にヤキモチ妬いて、オレに甘えたいとか!?)

ヒノエはこれだ!とばかりに考え付いた。
しかし、望美は冷静にヒノエに問うた。

「ヒノエくん。服の中に何か入ってる?」

そう言われてヒノエは懐に入れっぱなしの『例のもの』を思い出した。
そして着物を引き寄せるとゴソゴソと中を探った。

「何それ」

望美はヒノエの手に握られている小さな袋を指した。

「これは木天蓼、マタタビだよ。弁慶に頼まれて取り寄せたんだ。いわゆる漢方薬さ」

「マタタビ!?それだよ!」

望美は合点がいったとばかりにポンと手を打った。

「マタタビって猫にとっては万能薬みたいなもので、これをあげると酔っ払いみたいになっちゃうんだって」

望美はマタタビの性質について説明した。
桃花はまだヒノエの着物に体をこすり付けている。
試しにヒノエがマタタビの子袋を桃花に近づけると、同じようにヒノエの手に体を摺り寄せた。

(ひょっとして昨日の猫もこれに寄ってきたとか)

ヒノエはちょっと嫌なことに気づいた。
そういえば、ずっと懐に入れっぱなしだったし、やたら胸に顔を摺り寄せた気がする。

(こいつがじっと見てたのも、自分もマタタビに擦り寄りたいが、
別の猫がいてそれができないのを羨ましげに見ていただけとか)

どんどん悪くなる思考にヒノエはブンブンと頭を振った。

(いや、こいつはともかくあの猫は純粋にオレを好きだったに決まってる)

ヒノエはそう決定付けて、余り深く考えないようにした。
ふと見ると桃花はまだマタタビを持つヒノエの手に摺り寄せている。
ヒノエは手を引き抜くと、さっさと弁慶宛の文箱にマタタビを仕舞った。

(まさか弁慶のヤツ、これの効能知っててオレに頼んだんじゃないだろうな)

ヒノエは察しが良過ぎるため、またしても嫌なことに気づいてしまった。
弁慶には桃花のことを言ってないはずだが、相手はあの弁慶である。
こっちの様子を知ることなど造作もないことだろう。

(もしそうだったら、今度会ったらただじゃおかねぇ)

そうヒノエは心に硬く誓った。



数日後、弁慶の下に文が届いた。
弁慶は手紙の内容を確認するとその顔に笑みを浮かべた。

「ふふ。少しは波風がたったようですね」

手にした文には始めに書かれた文の隣に、明かに後から付け加えられた文が綴られている。

『例のものが届いたので送ってやる。

 二度とオレにコレを頼むな。帰ってきたら覚えてろ』

いつでもどこでも可愛い甥をいじめるのは楽しいものである。
さて次はどんな風に波風を立たせようかと、弁慶は瞑想に耽った。


<了>



ヒノ猫シリーズ第4弾!マタタビの話です。
ヒノエがかなり可哀想なことになってます。
今回は桃花の出番はあまりありません。
茶トラに全部取られてます。
ちなみにこの茶トラの猫はウチにいるもう一匹の古株をモデルにしています。
オバサンなので、子猫にいいようにあしらわれてちょっと可愛そうな猫です。
そして少し疑問の残るラストの朝、ヒノエがあの状況から何故情事に成功していたかというと、
ムード作りを一生懸命取り繕ったからです。
あの手この手で何とかそこまで持っていった、というオチをつける予定でした。

マタタビについて調べていたんですが、マタタビって人間にも効くみたいですね。
中風、リウマチなどに効果があるそうです。
世にはマタタビ酒というのもあるらしいです。
マタタビの名前は食べるとまた旅に出れるというところからきているらしく、何か勉強になった感じがしました。

最後に、1111hitを踏んでくれたミヤカミマコト様に
葉月から心からの感謝と愛をこめて・・・。