ヒノエ猫命名討論会




この日、熊野水軍緊急会議が開かれた。
議題は「頭領の拾った子猫の名前について」である。
これが今後の熊野にとってどんな役に立つのか甚だ疑問だが、
頭領が開くと言ったのなら仕方がないと、港の隅っこで水軍衆が集まり、
盛大な会議が執り行われることになったのだ。
事の起こりは今朝にまで遡る。



「名前何がいいかなぁ」

朝食が終わった後、ヒノエの出かけるまでのわずかな時間を共に過ごそうと二人は寄り添って話していた。
その時、望美の言った言葉がそれだった。

「何の話だい?」

「子猫の名前。いつまでも『猫ちゃん』じゃ、可哀相でしょ」

子猫と聞いて、ヒノエは内心うんざりした。
港にいた子猫を拾ってきて飼うことになったのが昨日のこと。
一日の間に、頬を引っかかれるわ、木から落ちるわと大変だった。
おまけに、この猫自分にはちっとも懐かない。
望美ばかりに懐くのだ。
それでも飼おうという気になったのは、望美がこの子猫を気に入っているから。
普段は熊野別当として熊の水軍の頭領として厳しい彼だか、望美にはとことん甘いのだ。
ヒノエは女房に預けてある子猫を思い出して言った。

「猫なんだから、ミケでいいんじゃないか」

正直名前なんてどうでもいい。
適当に名前を決めて望美の気持ちを猫から逸らしたい、そんな気持ちでいっぱいだ。

「ミケは三毛猫でしょ。あの猫は白いんだから」

「じゃあ、シロだ」

「・・・・・。ヒノエくん、センス悪い」

「はぁ?」

望美は時々自分に分からない言葉を遣う。
センスと言う言葉は初めて聞いたが、要するに「趣がない」「趣味悪い」「ダメダメ」
と言うことだろうとヒノエは解釈した。

「じゃあ、望美は何がいいんだよ」

「それは、まだ決めてないけど」

望美は言葉を濁した。

「それじゃ、話にならないね。シロ!シロに決定!」

ヒノエは話をここで打ち切ろうとした。
だが、そんな投げやりの態度が望美には気に入らなかったらしい。

「イヤ!ヒノエくんにはもう聞かない。私が自分で付けるもん」

望美はプイッと横を向いた。
望美の態度にヒノエもムッと口を結んだ。

「オレが拾ってきたんだ。決定権はオレにある」

「そんなのってないよ!」

珍しく険悪なムードに、ヒノエを呼びに来た女房はハラハラしながら見ていた。
それでも、自分は役目を果たさなければならないと意を決してヒノエに話し掛けた。

「あの、湛増様そろそろお仕事のお時間ですが」

「わかってる!」

やや多きめの声で返事をすると、上着を掴んで戸口の方へ向かって歩き出した。

「あっ、見送りは?」

本気で怒ったヒノエに、さすがの望美も慌てて声を掛けた。

「い・ら・な・い!」

ヒノエはそれだけ言うと、さっさと仕事に出かけてしまった。
後に残された望美と女房はあっけに取られてヒノエの後姿を見送った。

「望美様ぁ、湛増様本気で怒ってましたよぉ」

今にも泣き出さんばかりの女房が望美にすがりつく。
望美もあんなにヒノエが怒るのは予想外だったので、対応に困ってしまった。

「う〜ん、失敗しちゃったなぁ。でも、何がそんなに気に入らなかったんだろう?」

そんなに子猫の名前つけたかったのかなぁと望美は的外れな考えを巡らせていた。

邸を後にしたヒノエは、早足で仕事場である港へと向かっていた。

「ったく、望美のヤツ。オレの気なんか全く知らないで」

ブツブツと文句を言いながら歩いていたヒノエだか、しばらくすると歩みを緩めた。
減速した歩みは、やがて止まり、ヒノエは空を仰いだ。

「あ〜あ、失敗した」

冷静になって考えてみれば、自分は大人気ないことをしたと思う。
喧嘩なんてしたかったわけじゃなかった。
猫の名前なんてどうでもいい。
望美が自分の好きな名前をつければすむことだ。
ヒノエが怒ったのは望美が自分の考えた名前を受け入れなかったことではなく、
二人きりの時に別のことを考えていたと言うことだ。
望美の全てを自分のものにしたいというような我侭は言えない。
ヒノエも熊野別当して、自分の全てを望美に捧げることはできない。
自分ができないことを望美に要求することはしない。
でも、二人きりの時くらいは自分のことだけを考えて欲しい、そんな気持ちがあった。
我ながら飽きれるほど望美に惚れていると思う。
しかし、子猫が来てからどうも望美の自分に対する愛情が削られている気がする。
十割あった愛情が七割に減った感じだ。
ヒノエはどうしようもない不安を覚えた。
それはさておき、ヒノエはとりあえず目先の問題を解決することにする。

「さて、どうやって仲直りするかな」

考えていると、ある一つの考えが浮かんだ。
これぞ名案とばかりに、ヒノエは意気揚々と仕事場に向かった。
そして、ヒノエが港に着き、水軍衆を集めて言った言葉かこれだった。

「今からウチの猫の命名討論会を開催する」

何の重要会議だろうと、真剣な面持ちで集まった熊野水軍の男たちは一斉に石化した。
こうして、議題「頭領の拾った子猫の名前について」の熊野水軍緊急会議が始まったのだ。



「あの、頭領。一つ聞いていいっすか?」

「何だ」

早くも石化を解いた一人が勇気を持ってヒノエに尋ねた。

「何でまた、猫の名前なんか決めるんで?」

「それはだな・・・」

ヒノエは事の経緯を話して聞かせた。

「・・・と言うわけで、望美と仲直りするために、望美が納得するような名前をオレが持って帰る。
猫の名前は決まり、オレと望美の仲も元通り。めでたし、めでたしの万々歳ってわけだ」

そこまで話を聞いて、水軍衆はまるでシンクロしたかのように同じ事を考えた。

(なんだ、惚気かよ)

(惚気か)

(惚気だな)

熊野の有名なおしどり夫婦は、痴話喧嘩すら惚気話となる。
たかだが夫婦の痴話喧嘩に自分たちまで巻き込まれるとは、
水軍衆の男たちにとっては全くはた迷惑な話である。

「なんか、いい名前ないか?」

そんな事を部下が考えているとも知らず、ヒノエは問うた。

「そうですね〜」

所詮は他人事。男たちは全く考えに集中できなかった。
なかなか名案が出ないことに痺れを切らしてヒノエは言った。

「お前ら、真面目に考えてるか?」

「や、やだなー、頭領。真面目に考えてますってば」

うんうんと他の男たちも頷く。

「本当か。これは望美のためでもあるんだからな」

水軍衆の頭に望美の姿が浮かぶ。
明るくて、まだ幼さが残る美しい少女、もとい新妻。
いつも自分たちを平等に扱ってくれて、労をねぎらってくれる。
望美のためと言われて、初めて水軍衆は真剣に考え出した。

「ところで、頭領。問題の猫ってどんな感じっすか。
まずは容姿を聞かないと、出るもんもできやせんぜ」

「確かに、お前の言う通りだな。そうだな、大きさはこのくらいで」

ヒノエは手で大きさを示して見せた。
水軍衆もふんふんと聞き入る。

「性別はメスだ。色は白くて、尻尾はシュッとしてる。目はくりくりしてて、耳は大きくてピンと立ってる」

ペラペラとしゃべるヒノエに、男たちは(意外とちゃんと可愛がってるんだなー。
頭領もかわいいとこあるじゃん)とほんわかした気持ちになった。

「んで、望美にばかり媚売って、俺には見向きもしねぇ。
撫でようとすれば暴れるし、挙句の果てにこのオレに傷付けやがった」

だんだんと声に力が入るヒノエに、男たちは可愛がってるを訂正して仲(悪いんだなー)と思い直した。

「ちなみに、頭領は何て提案したんっすか?」

「シロだ」

シーンとその場が固まる。

(それはちょっと安易過ぎます)

誰もが心の中で思った。
さすが息子に湛増と名付ける湛快の子。
名前のセンスのなさは親譲りとしか言いようがない。
妙に納得した水軍衆の中で、一人だけ違うことを考えた者がいた。

「良いっすね!俺のとこの犬も黒だからクロってんです」

「そうだろ!やっぱシロだな」

それはないだろ!と思ったもう一人の水軍衆が助け舟を出した。

「オレは重が良いと思います」

「それはてめぇの女房の名前じゃねぇか!」

バシッと隣から素早くツッコミが入る。

「いてて、でも可愛いものには自分の好きな女の名前付けたいじゃないか」

好きな女の名前。
ヒノエは即座に反応した。

(こいつの言うとおりにするとなると、当然オレの場合『望美』になるよな。
猫の望美に、飼い主のオレ・・・)

ポンッとヒノエの頭の中に猫耳と尻尾を生やした望美が浮かぶ。

『ヒノエくん。望美、一日ヒノエくんがいなくてさみしかったニャー』

そう言ってヒノエに頬を摺り寄せる望美。

(飼い主のオレは、もちろん何を命令してもいいわけで)

ヒノエの妄想はさらにエスカレートしていく。

『いいだろ、望美』

『ん・・・。あっ、・・・ダメッ』

『ダメじゃないだろ?お前の主人はオレだぜ』

『・・・はい。ご主人様ぁ』

(イイッ!)

何を想像したのか、ヒノエの頭の中は完全に猫から望美へと転換していた。

「よーし、決めたぞ!」

いきなり立ち上がり大声を張り上げた頭領に、
ヒノエの妄想中真剣に話し合っていた水軍衆は驚いて視線を上げた。

「ちなみに何になったんで」

「ふっ、聞いて驚け」

そう言って自信満々に告げた名前に、その場は凍りついた。



「ただいま、望美」

その日の仕事を早々と切り上げ、ヒノエは邸へ帰ってきた。
もちろん、必死に考えた最高の(本人はそう思っている)名前と共に。

「望美、猫の名前のことなんだけど」

「あ、そのことで私も話しておきたいことがあったの」

一呼吸置いて、望美は頭を下げた。

「今朝はごめんなさい」

「え?」

ヒノエは予想外の言葉に動揺した。

「私が頑固過ぎたの。二人で飼うんだもの、名前は二人で決めよう」

ヒノエは絶句した。
よりいい名前を提示して望美を納得させ、仲直りしようというヒノエに対して、
望美は二人で考えようと言うのだ。
望美はいつも自分より遥か上を行く。
それによってヒノエは自分の中にあった、子供じみた嫉妬心を改めて自覚した。
ヒノエは望美をそっと抱きしめた。
どうして自分は望美の愛情を疑ったりしたのだろう。
望美の愛情は十あるものを振り分けるのではなく、
大事なものが増えたならばその分だけ愛情を増やしていく、そういう愛情だ。
自分に対する愛情は何一つ変わっていないのに。

「どうしたの?ヒノエくん」

無言で抱きしめるヒノエを心配そうに、望美は見つめた。

「ああ、なんでもない。子猫の名前は二人で決めよう」

この上ない優しさを含んだ声が望美に降りかかった。
望美はよく分からなかったが、これで仲直りができたのだろうと、
肯定の意味も含めてヒノエの背に腕を回した。




「ところで、ヒノエくんは何て名前を考え付いたの?」

夜、後はもう寝るだけとなったヒノエと望美は寝室で子猫と共に過ごしていた。
子猫と遊んでいるのは専ら望美の方で、ヒノエはそれを眺めているという形である。

「絶対望美も気に入るぜ!こいつの名前は・・・」

仁王立ちになり腰に手をあて、自信満々にヒノエはビシッと子猫を指差して言い放った。

「『望美』だ!」

ヒューっと望美と猫、そしてヒノエの間に冷たい風が走った。
望美の反応は昼間それを聞いた熊野水軍の男たちと同様の反応だった。
どうやらあれからヒノエの脳内映像は猫化望美のままだったらしい。

「却下」

望美はすぐさま切り捨てた。

「何でだよ!」

「どこに飼い猫に自分の名前をつける飼い主がいるっていうのよ!」

もっともな言い分だが、ヒノエは譲らない。

「まぁ、聞けよ。これには深―い理由があるんだぜ」

「理由ぅ?」

望美はいぶかしげな声をあげた。
そして、ヒノエはある水軍の男が話した理由をそのまま言った。

「可愛いものには自分の好きな女の名前付けたいじゃないか」

それを聞いて望美はかあぁと顔を赤くした。

「・・・・バカ。でもダメ。『望美』なんて、恥ずかしすぎるよ」

それでも、拒否する望美にヒノエは妥協案を出した。

「そうか?なら、『湛増』でもオレはかまわないぜ」

「ダメ。この子は女の子だから」

これでは埒が明かないと、望美は自分の意見をヒノエに言った。

「私も考えてたんだけど、『桃花』ってどう?」

「『桃花』ぁ?」

どこからそんな名前が出てきたのかと、ヒノエは不満げな声を出した。

「ね?『桃花』がいいよねー。桃花ちゃん」

既に決まっているというような口ぶりで、望美は子猫に話しかけた。
それに対して子猫は気に入ったとでも言うように「にゃー」と一声泣いた。

「気に入ったみたい。これで決定だね」

結局は望美の考えた名前になるんだな、とヒノエは溜息をついた。
しかし、ヒノエも何となく自分が考えたものよりいい気がしたので、素直に受け入れることにした。
ヒノエは知らないことだが、昨日子猫とヒノエが登った木が桃だった。
そこからヒントを得て望美は猫の名前を決めたのだ。
つまり、名前に関しては望美のセンスもヒノエと同等なのである。

「これからヨロシクね。桃花」

望美は桃花の頭を軽く撫でた。
桃花も満足する名前をつけてもらったことが嬉しいのか、ごろごろと喉を鳴らす。

「ほら、ヒノエくんも」

「オレも?」

当然と言うように、望美は桃花をヒノエに差し出した。
戸惑いつつも、ヒノエは我が家の新しい家族の一員に手を伸ばした。

「ヨロシクな。もも・・・」

あと数センチというところで、桃花はフーッっと毛祖逆立ててヒノエを威嚇した。
それが「よくも私にダサい名前をつけてくれようとしたわね!」とヒノエにはこう聞こえた。
ピシッとヒノエのこめかみに十字の血管が浮き上がる。
差し出された手は拳へと変わり、ブルブルと震えている。

「てめぇ、言っとくけどお前の飼い主はオレだからな!」

また始まったヒノエと子猫の争いに、望美ははぁ〜と息をついた。



<了>



まず、謝ります。本編のような理由で名付けた方、湛増好きな方すみません。(平謝り)
私は決して悪いとは思っておりませんよ。えぇ、誓って!
湛増だって大好きです。

この話、ついにシリーズ化しちゃいましたね。
私も予想外の反響でした。ありがとうございます。

余談ですが、猫はオスとメスとで性格が違うらしいです。
メスは女王様、お嬢様タイプで、クールでわがまま。
オスは甘えん坊タイプが多いらしいです。
まんま、ウチの桃花とヒノエですね。
ちなみに、桃花の本当の名前の理由ですが、適当です。
シリーズ化するならまず名前からだろ、と思って一番初めに考え付いた名前に、適当に理由をつけました。

ヒノ猫シリーズ続く・・・のか?(未定)