ヒノエ猫奮闘記





まだ日の高い頃、ヒノエは自分の屋敷へ向かっていた。
普段から考えれば随分と早い帰りである。
意気揚々と帰路を歩くヒノエの手には、何やら怪しげな竹籠が抱えられていた。

「ただいま、望美」

家に着いたヒノエは望美の部屋に入った。
望美はこんな時間にヒノエが帰ってくるとは思ってもいなかったので、
部屋で文字の練習をしていたのだ。
熊野に嫁いでから、こちらの知識も身につけようと、
毎日文字の読み書きやら作法などを学んでいる。
望美は向かっていた文机から顔を上げ、入ってきたヒノエに近寄る。

「おかえりなさい。お昼に帰ってくるなんて珍しいね」

望美の笑顔を見ると、仕事の疲れなど吹き飛んでしまう。

「悪いけど、これからまた戻らなきゃいけないんだ。
一度帰ってきたのは望美にお土産があってね」

そう言って手に持っていた竹籠を見せる。

「お土産ってこれ?」

望美は興味津々に顔を近づける。
すると籠がガサガサと動いた。

「生き物なの?」

驚いた望美は近づけていた顔を思わず引っ込めた。

「ふふっ。望美ならきっと気に入ると思うよ。
ただ、ちょっと逃げ足が速いんでね」

そう言って、ヒノエは後ろ手で戸をしっかりと閉めると、籠の蓋を開けた。
一瞬キラリと黄色い丸が二つ光ったかと思うと、何か白いものが飛び出し、
さっと文机の下に入っていった。

「あっ!猫!!」

文机の下で警戒するように身を丸くして、こちらを見ている白い小動物を見て望美は声を上げた。
まだ子猫である。

「今日、港で見つけたんだ。
望美が喜ぶだろうと思って捕まえたんだけど、結構すばしっこくてさ。
帰るまでに逃げられそうだったから、先につれて帰ってきたんだ」

「そうなんだ。かわいいー。私猫大好きなの」

望美は膝を突いて文机の下を覗き込む。
手を伸ばすが、子猫のほうは怖がって後ずさりをする。
そんな光景を微笑ましく眺めながら、ヒノエは残念そうに言った。

「じゃ、オレは仕事に戻るよ。暗くなる前には帰るから」

「え!もう行っちゃうの?
もう少しゆっくりしていけばいいのに」

ぱっと猫から離れて、望美がヒノエに近寄る。
ヒノエはそっと望美の額に口付けを落とす。

「ごめんな。夕方には帰るからさ。
あ、見送りはいいよ。そいつと仲良くしてやって」

ヒノエは共に部屋を出ようとする望美を引き止めた。
望美がこの猫をとても気に入ったのが分かったからだ。
顔が子供のように輝いている。
そんな望美を見て、猫と引き離すことはできない。
自分が戻るといった時、望美がすぐに駆け寄ってくれた、それだけで十分だった。

「うん。お仕事頑張ってね」

戸口で手を振り別れ、ヒノエが廊下から見えなくなると、望美は子猫に向き直った。

「さ、ヒノエくんにも言われたし、折角だから仲良くならないとね」

ヤル気満々の望美に対して、子猫はまた後ずさりした。

ヒノエはというと、かわいらしい望美の反応を反芻しながら港への道のり歩いていた。
のちに自分の拾った猫が、彼を悩ます存在になるとは知らずに。



その日、ヒノエが屋敷に帰ると、いつも出迎えに来てくれる望美の姿がなかった。

「望美はどうしたんだ?」

出迎えに出てきた女房に聞く。

「ヒノエ様の贈られた子猫が大変気に入られたようで、まだお部屋で遊んでいらっしゃいますよ」

「へぇ」

そっけない返事を返すと、ヒノエは望美の部屋に向かった。

「望美入るよ」

戸を開けると、望美と望美の膝で寝ている猫の姿が目に入った。

「おかえりなさい、ヒノエくん。ごめんね、出迎えできなくて。
この子が寝ちゃったから動けなくて」

「随分懐いたね。昼間はあんなに警戒していたのに」

望美の隣に腰を下ろし、気持ちよさそうに眠る猫を眺める。

「結構時間が掛かったんだよ。ここまで慣れさせるの。
でも、一度慣れたら可愛くて」

愛おしそうに子猫の頭を撫でる。
触れたときに起きてしまったのか、子猫ゴロゴロと喉を鳴らした。

「ふーん。でも、こんなにお前にべったりなのはちょっと妬けるね。
オレも猫になってみようかな」

そう言ってヒノエは望美の横に座り込み、肩に頬を摺り寄せたが、

「もう!ヒノエくんは猫じゃないでしょ」

あっさり望美にかわされてしまった。
しかも、「ねー」と猫を抱き上げ、同意まで求めている。
そして、猫もそれに答えるように「にゃー」と鳴いた。
ヒノエはそんな光景に少しムッと口を尖らせた。
望美と子猫が鼻と鼻が触れるぐらい顔を寄せていると、子猫が望美の口をペロッと舐めた。

「あ」

「あ!」

望美とヒノエは同時に声を発した。
だが、同じ発音なのにその意味合いは微妙にずれている。

「もう、ほんっと可愛い」

望美は子猫の行動にさらに愛しさを覚え、

「こいつ!望美の唇はオレのものだ!」

ヒノエは子猫の行動にさらに嫉妬心を燃やした。

「ヒノエくん、相手は子猫なんだから」

「猫といえど、嫌なものは嫌だね」

望美はヒノエの反応に「はぁ〜」と小さくため息をついた。
これから飼おうというのに、邸の主がこれでは先が思いやられる。
そこで、望美はある作戦を思いついた。

「ヒノエくん。私、この子にご飯持ってくるから、その間見ててくれる?」

「オレが?」

「そう。じゃ、ヨロシクね」

そういい残すと、望美は部屋を出て行った。
二人きりになれば、自然と仲良くなるだろうと思ってのことだ。
さて、部屋に残された一人と一匹はお互いの縄張りを意識して、一定の距離を保っていた。
縄張りとはもちろん望美のことである。

「おい、お前。ちょっとはオレにも触らせろよ」

先に動いたのはヒノエだった。
なんだかんだ言っても、ヒノエも子猫に触ってみたかったのだ。
しかし、手を伸ばすとその分だけ猫も後ずさる。

「そっちがそういう態度とるなら、オレにだって考えがあるんだぜ」

半ばヤケになり、じりじりと部屋の隅に猫を追い詰めると、勢いよく手を伸ばし子猫を捕まえた。

「捕まえた!って、うわっ!!」

ヒノエの手の中で、子猫は逃れようと必死にバタつく。
しかし、ヒノエも離そうとはしない。
そうこうしているうちに、子猫の爪がヒノエの頬を引っかいた。

「あいてっ!」

鋭い痛みに思わず捕まえていた手が緩む。
その隙に子猫はするりとヒノエの手から逃れると、ダーッと戸口の方へ走っていった。
戸口は小さな隙間が開いていた。
きっと望美がきちんと閉め忘れていたのだろう。

「あ!」

しまった!と思った時には既に遅く、子猫はその隙間から外へ出て行ってしまっていた。

「ヒノエくん!今、子猫出て行かなかった?」

バタバタと餌を持ってきた望美が部屋に入ってきた。
状況は最悪。望美にも知られてしまった。
ヒノエはただ頷くしかできない。

「どうしよう。もう暗くなっちゃうのに」

空には月が昇り、辺りは薄暗闇に包まれ始めていた。

「まだ、屋敷の中にいるかも。ヒノエくんも探して」

望美は餌をその場に置くと、家の人たちにも捜索を手伝ってくれるよう頼みに出て行った。
一人残されたヒノエは正直面白くなかった。
自分が拾ってきたのに、望美にしか懐かない子猫も。
自分そっちのけで、子猫と戯れる望美も。
そして、何よりそんな些細なことに嫉妬する自分が。
しかし、素直に探しに行く気にもなれず、しばらく部屋に残っていると、部屋の外から声が聞こえた。

「望美様、大丈夫ですよ。まだ時間も経っておりませんし、きっと見つかるはずです」

覗いて見ると、心配の余り今にも泣き出しそうな望美を女房が慰めているところであった。

「でも、まだあんなに小さいのに。もし屋敷の外に出てたら・・・。
それに、ヒノエくんが折角、私のために、連れてきてくれたのに。
逃がしちゃったらヒノエくんに申し訳ない・・・」

「もう少し探してみましょう。さぁ、あちらに」

「・・・はい」

足音が遠のいた。
恐らく、家の奥の方を探しに行ったのだろう。
ヒノエは望美の言葉と思い起こした。

『ヒノエくんが折角、私のために、連れてきてくれたのに』
『ヒノエくんに申し訳ない・・・』

その言葉はヒノエの胸に深く突き刺さった。
望美は逃げ出した猫だけでなく、ヒノエのことも気にしてくれている。

(何やってるんだ、オレは)

子猫を拾ってきたのは、皆に迷惑を掛けるためでも、ましてや望美を悲しませるためでもない。
ただ喜ばせたかったからだ。
なのに、自分は猫に嫉妬して、挙句の果てに逃がしてしまうなんて。

(とんだバカだ)

次の瞬間ヒノエは駆け出していた。



子猫の捜索はまだ続いていた。

「猫ちゃーん。どこにいるの?」

望美は茂みを篝火で照らして探していた。
ガサガサと手を使って枝を広げ、もっと奥まで光が届くようにして探す。

ガサガサ   ガサガサ

手元以外の別の方向からもガサガサと音が聞こえてくる。

(何?)

自分が手を止めると、もう一つの音はより大きく聞こえ、その位置を示した。

(上?)

望美が見上げると、ザザッと木から何かが降りて、いや落ちてきた。

「ヒノエくん!」

落ちてきたのはヒノエ。その腕の中には白い子猫が抱えられている。
望美はヒノエに駆け寄った。

「よかった。無事で」

望美はほっとした顔をした。
その表情に一番ほっとしたのはヒノエだった。

「ああ。猫が無事見つかってよかったな」

これで、望美が泣かなくてすむ、そうヒノエは思った。

「違うよ、ヒノエくん。猫もそうだけど、私はヒノエくんが無事でよかったって言ってるの」

予想外の回答に、ヒノエは目を丸くした。

(猫のことを気にしてたんじゃなかったのか)

望美はちゃんと自分のことも考えてくれている。
そんな望美の気持ちが素直に嬉しかった。
ヒノエがそんなことを考えている間、望美はヒノエが落ちてきた木をじっと見上げていた。
どうにも合点が合わない。
望美はヒノエと視線を合わすように、かがみこむと当然の質問をした。

「ありがとう、ヒノエくん。でも、なんで木の上にいたの?」

ヒノエは腰を上げ、パンパンと体についた土埃を払いながら答えた。

「こいつ、木に登ったのはいいけど、降りられなくなってたんだ。
だから、オレが登って助けてやろうとしたけど、
抱えこんだら暴れて体制を崩して落ちちゃったってわけ」

ヒノエは事の経緯を説明した。
子猫のほうはよほど怖かったのか、ヒノエにしっかりしがみついて放さない。
こういう姿を見ると、ヒノエも少しは可愛げがあるなと思い直した。

「そっか。でも、葉っぱや土で汚れちゃったね。お風呂に入れてあげなきゃ」

そう言って、望美はヒノエから子猫を預かった。

(汚れているのは俺も一緒なんだけどね。そこまで我侭は言えないかな)

そう思っているヒノエを知ってか知らずか、望美は振り返ってヒノエを促した。

「ほら、そこで拗ねてる大きな猫もお風呂場に行くよ」

「え?」

「汚れているのは一緒でしょ。
それに、拗ねてることわかってないとでも思ってたの?」

「・・・・」

何も答えないヒノエに望美はクスリと笑うと、
ヒノエに近づきおもむろに手を伸ばし、頬の傷を撫でる。

「これ、この子にやられたの?
私、ヒノエくんにも仲良くなってもらって、飼えたらいいなって思ってた。
でも、ヒノエくんも大事だから。だから、ヒノエくんが駄目だって言うなら私・・・」

望美は少しだけ残念そうに目を伏せた。
それを見てヒノエは仕方ないなと、腹を決めた。

「駄目なんていわないよ。望美はこいつが気に入ったんだろ。
だから、オレはちょっとだけなら、こいつに望美を取られても我慢する。
それに、その・・・少しだけ、オレもこいつの事可愛いと思ったし」

最後のほうは少し言葉を濁す。
しかし、望美はしっかりその言葉を聞いて、ぱっと顔を輝かせた。

「本当!うれしい」

この笑顔のためだけに、自分はなんでもできるような気がする。
そして、何でも叶えてやりたいと思う。
でも、今日は少しだけ頑張ったから、

「その代わり、ね?望美」

ヒノエは望美に顔を近づけた。
その意図を察して、望美は目を閉じる。
口付けを交わし、寄り添う二人の間で子猫は満足そうにゴロゴロと喉を鳴らしていた。




風呂から上がったヒノエは望美の膝枕で幸せを満喫していた。
子猫のほうは、少しばかり遠慮しているのか望美の横に体をくっつけて丸くなっている。

(ヒノエくんも猫みたいだよね)

望美はヒノエの頭を撫でながら、つくづく思った。

(木にも軽々登れるし、意外と甘えん坊なところもあるし)

まるで2匹の猫に囲まれているようだ。

「ねぇ、猫の名前はもう決まったの?」

今まで閉じていた目を開け、ヒノエは尋ねた。

「ううん。でも、可愛い名前がいいな」

「可愛い?」

ヒノエは望美の答えに怪訝そうな顔をした。

「オスだろ?そいつ」

「ちがうよ。女の子だよ」

ほらっと望美が子猫を抱え上げ、お腹をヒノエに見せる。
ヒノエも体を起こして確認する。
なるほど、確かにメスだ。

(ってことは、オレはずっとメス相手にヤキモチ妬いてたってことか?)

かつてはプレイボーイで名をはせた自分が、猫を、しかもメス相手に
嫉妬していたなんて他人に知られたら笑い事だ。

(絶対、誰にも話せないな)

はぁ〜とため息をついて、また望美の膝を枕に横になろうとする。
しかし、それを望美は制した。

「駄目だよ。今はこの子が寝てるんだから」

見ると先ほどまで自分が頭を乗せていた膝は既に子猫に陣取られていた。
先ほどまで抑えられていた感情が、また湧き上がってきた。

「前言撤回!こいつ、全っっ然可愛くねぇ」

ヒノエは子猫を睨み付けた。
対する子猫のほうは、悠々と欠伸をしている。
その姿がヒノエには、「まだまだね」とか「望美は私のものよ」と
宣戦布告されているようで、余計に腹が立った。



<了>



最近子猫を拾いまして、その猫を眺めながら思いついた話です。
話では白猫なんですが、ウチのは正反対の黒猫です。
今回は嫉妬深いヒノエを目指して書きました。
それにより、ヤキモチの相手は人間すっ飛ばして子猫に・・・。
猫奮闘記ですが、好評でしたら続きも書こうかな〜と模索中です。