手の届かない距離




「・・・ん」

私は窓から差し込む光で目を覚ました。
時間帯は夜から朝に変わっていて電光とは違う自然の光の眩しさに目を瞬かせる。
堅い机の上から体を起こすと大きく伸びをした。
作業代の上でいつの間にか眠っていたらしい。
修理途中の時計や道具、部品が散乱しているし、電灯も点けたままだ。
方に手をやり凝りをほぐす。
ふと飲みかけのコーヒーが目に入った。
昨夜アリスが私のために入れてくれたものだ。
アリス。
私の部下、そして同居人。
昨夜は私より先に就寝したはずだ。
ということは私よりも多くの時間を睡眠に費やしていることになる。

「アリス」

まだ寝ている同居人に声をかける。
きっといつものように眠い目をこすりながら起き上がるだろう。
そして私にまた徹夜で作業をしたのかと文句を言いながらも気遣い、眠気覚ましのコーヒーを入れなおしてくれる。
しかし、いくら待ってもアリスは起きなかった。
まだ眠いのか、もしかしたら具合が悪いのかもしれない。
私は立ち上がってベッドへとつながる梯子を数段上った。

「アリス?」

ベッドは空だった。
先に起きて外へと出かけたのだろうか。

「まさかっ」

嫌な感じがして窓に駆け寄る。
そしてもっと周囲をよく見渡すために屋上へと階段を駆け上がった。
一段飛ばしで上っていく。
長い階段だ。
普段から外に出ないためか息はすぐにあがり、最上階につくころには汗が流れていた。
それでも止まらず手すりに駆け寄る。

「引越しか」

思ったとおりだ。
ハートの城、帽子屋屋敷が視界から消えている。
遊園地は残っているようだが。
引越し。
地殻変動で起きる土地ごとの引越しだ。
ここは既にハートの国ではない。
ハートの城と帽子屋屋敷は消えてしまった。
いや、向こうからすれば時計塔と遊園地が消えてしまったことになるのか。
普段の私ならそう動揺することではない。
そう頻繁に起こることではなくても、珍しいことではないからだ。
ましてや私は孤独を好む。
どこの何がなくなり、誰が消えてしまっても私にとってさして問題はない。
しかし今回の私は明らかに動揺していた。 

「エース」

ハートの城の騎士、そして私の部下。
爽やか過ぎるほど爽やかな男は根暗な私が好きだといって友人になった男だ。
ハートの城が消えてしまった今、おそらく彼はここにはいないだろう。
そして、

「アリス・・・」

白ウサギがつれてきた余所者もここにはいない。
私にはわかる。
ネコやネズミはよく弾かれると聞くが余所者の彼女も見事に弾かれたのだ。
私の友人たちはもういない。
ジワリと手に汗が滲んだ。
いつからだろう、一人でないことに慣れてしまったのは。
隣には常に彼らがいて、鬱陶しいと感じながらもそれに甘えていた自分がいた。
そう、私は鬱陶しいと感じていたはずだ。
生活が元に戻るだけ、気ままな日常に戻るだけだ。
もう外に出たほうがいいとか無理やり散歩につき合わす者もいないし、目が悪くなると夜の作業を咎める者もいない。
私はゆっくりと階段を下り、自室に戻った。

ちくたく ちくたく

時計の音が聞こえる。
この音はこんなにも大きな音だっただろうか。
この部屋はこんなにも広かっただろうか。
見回せば彼らの面影がよぎり、重い足取りで椅子に体を沈める。
ふと飲みかけのコーヒーが目に入った。
彼女はもういない。
このコーヒーももう飲めない。
これからは何もかも自分でしなくてはいけない。
いつの間にか採点できなくなったコーヒーを口に含む。
冷たい液体は音を立てて喉を通っていく。

「苦い」

だが旨い。
彼女は元気にやっているだろうか。
順応性の高い彼女のことだから戸惑いながらも上手くやっていくだろう。
私ではない誰かと言葉を交わし、私ではない誰かと行動を共にする。
私はただ時計を修理していくだけだ。
今までと何も変わらない。
全て飲み干してカップを作業台に置く。
工具を手にとってやり掛けの時計に向かい合った。




アリス・・・。
私は根暗で陰鬱で、偏屈だから君の幸せは願わない。
むしろ不幸であって欲しいと思う。
私と同じくらい不幸で、悲しみ寂しがるといい。
幸せにはならないで、私だけを思い出してくれるといい。
けして手は届かない、これが私の愛し方だから・・・。



<Fin>



クロアリで取り残されてしまったユリウスの心情を書いてみました。
短いですが、彼の気持ち中心です。
ユリウスもアリスのことを大切な存在だと認識していると思います。
彼の『愛』が恋愛感情なのかは分かりませんが、捻くれた人の歪んだ愛を感じてくれたらと思います。
ナイトメアの「手の届く距離」と対の作品です。